プロフィール

健全な自分ファーストで生きる 別次元のみらいを創る カウンセリング+コーチング

はじめまして。カウンセラー・コーチ
水木 花(みずき はな)です。
このページにお越しいただきありがとうございます。


あなたは、日常のふとした瞬間にこう感じることはありませんか?

毎日忙しくしているのに報われない

いつも自分だけ我慢している気がする

本当は私、何をしたいんだろう?


いかがでしょう、当てはまるものはありましたか?
これらは全て、かつて私自身が感じていたことでもありました。


ここで自己紹介をさせていただきますね。


🍀親の求める「いい子」でいることで家庭での居場所を確保した子ども時代

昭和の香り漂う家庭で育ちました。
長男である兄は何かにつけ優遇され、女性である私は我慢を強いられるのが常でした。

そんな家庭環境の中、私は自分の本心は押しころし、様々なことを諦め、親の求める、手がかからない「いい子」でいることで、なんとか家庭での居場所を確保していました。

🍀「女性である私は価値がない」 我慢と自己犠牲の精神が刷り込まれました

家庭の雰囲気を壊すことや揉め事を起こすことを避けようと、「不公平だな、嫌だな」と思っても、その感情にはフタをし、親の要求に応えていました。
やがて、

「自分のことは後回しにして、求められている役割を優先する」

我慢と自己犠牲の精神が刷り込まれていきました。
同時に、兄との待遇のあまりの違いに

「女性である私は価値がない」

と心の奥底にインストールされました。

🍀大人になってからも自分のことは後回し、人生ハードモードでした

そのプログラムは、大人になって社会に出てからも、そして結婚してからも、気がつかないままずっと動き続けていました。

ふと気づけば自分ひとりで仕事も家庭も抱え込み、自分の健康より仕事や家庭優先。
ただただ忙しいだけで報われない、ハードモードの人生を送っていました。

🍀ついに「強制リセット」救急搬送から入院に。初めて自分の本音と向き合いました

子どもが生まれてからは育児も加わり、やがて義両親の入退院が繰り返される中、私自身も次々と体の不調に見舞われました。

それでも自分のことを後回しにして…ついには救急搬送され、そのまま入院となってしまいました。

起き上がることすらできなくなり病院のベッドの上で苦しみながら、いろいろなことが頭を巡りました。

「もう我慢と義務感ばかりの毎日には戻りたくない」

入院という「強制リセット」を経験し、初めて自分の本当の気持ちに向き合うことができたのです。

🍀手放す機会はあったのに「わかった」だけでまた日常に埋もれてしまった過去

実はもっと早く、このハードモードを手放す機会はありました。
頑張っているのに報われない日々を何とかしたいと、心理学やコーチング、潜在意識などを学んだ時です。

特にカウンセリングを受けた時は、「相手はプロ」という安心感の中、洗いざらい話を聞いてもらううちに自分の考え方のクセに気づいていきました。

自分の子ども時代の家庭について、思いがけない言葉が自分の口から出た時、

「そうだったのか!」

と胸の中のわだかまりがゆるみ、涙がこぼれました。
これまで、そんな風に思ったことは一度も無かったことでしたので、自分でも驚きました。

でも、そのときは「わかった」だけで良しとしてしまい、慌ただしい日常の中にまた自分を埋もれさせてしまったのです。

そして、救急搬送された病院のベッドの上で寝たきりになったとき、再びそれらのことを思い出したのでした。

🍀自分の人生を自分の手に取り戻し、「健全な自分ファースト」で生きると決めました

そして、これからは「健全な自分ファースト」で生きようと心に決めました。
それは決して自己中心的な生き方ではありません。

自分を大切にしながらも、周りとも調和して生きること
他人の期待ではなく、自分の価値観に従って選択すること

です。

求められている役割を最優先にして生きてきたこれまでの人生。
「もっと早く手放していれば…」という後悔とともに、同じように頑張りすぎてしまう方々の力になりたいと強く思いました。

🍀生きづらさを感じている方々が人生のステージを変えるサポートをしています

現在は、これらの経験と学びを活かし、生きづらさを感じている方々が、ご自身の心の声に耳を傾け、これまでの延長線上ではない別次元の未来をつくるサポートをしています。

誰かの理想を生きるのではなく、ご自身の理想の未来を生きませんか?
人生のステージはいつからでも変えられます。

どうぞ、安心してあなたの心の声をお聞かせください。
一緒に、あなたの未来を見つけましょう!

カウンセリング・コーチングのセッションは、お客様とカウンセラー・コーチが一緒に作り上げていくものです。
お客様がご自身の事をお話くださるにあたり、カウンセラー・コーチはどんな人なのかもっとよく知っておきたいと思われることもあるかと思います。
より詳しいプロフィールはこちらです。

↓詳しいプロフィール

家で気をつかい、我慢を重ねた子ども時代

共働きの両親のもと、二つ違いの兄がいる家庭に生まれました。
兄は、「やんちゃ」で「きかん坊」
いちど機嫌を損ねると大騒ぎになって手が付けられませんでした。

母はそんな兄に手を焼き、兄と私が揉めているといつも私にだけ、言い返さずに黙っているよう言ってきました。
二人の言い分を聞いたり兄に言って聞かせるより、手っ取り早かったのです。
私は不本意ながら口をつぐみました。

母は母で、私が何か頼んだり面倒をかけたりすると、とたんに機嫌が悪くなり、険しい顔で舌打ちしては嫌味を言ったり、時にはきつく叱りつけてきました。

私はそんな母を見るのが嫌で嫌でたまらなくて、何か困ったことがあっても口に出さず、言い返すことをせず、家庭内が不穏な空気にならないよう気を遣うようになっていきました。

兄の機嫌を損ねないように
母の機嫌を損ねないように


私は親の望む、手のかからない「いい子」でいることで、なんとか家での居場所を確保していました。

進学先の中学も親に決められる 

中学は父が選んだ学校を受験し進学しました。私の希望や意見は一切聞かれませんでした。

入学してみたら楽しいこともたくさんあったのですけれど、自分の考えや世界が広がっていく年頃になっても、

「親の言うことが一番正しい」

「親の言うとおりにしておけば間違いない」


そう言ってコントロールされるのが苦痛でした。

子どもの頃から「女だから」と制約され育つ

「長男」で「跡取り」の兄が何でも優先され機会が与えられる一方で、
私は「女だから」という理由でいろいろ制約されました。

「女だからダメ」
「女だから手伝いなさい」
「女だから早く帰ってきなさい」


まるで呼吸するかのように、これらの言葉を日々吐きかけられていました。

試験期間中でもひとりで家事を任され、何ひとつしない父と兄に心がざわめく

母が留守の時は、家じゅうの家事が私ひとりに托されました。

学校の定期テストと重なると試験勉強の時間を削ることになり、とても負担でした。
日頃からコツコツ勉強していたわけではないのがバレちゃいますね。

落ち着かない気持ちを抑えて、掃除して、料理して、洗濯して……。
次から次にやることに追われ、なかなか教科書を開くこともままなりませんでした。

父と兄は何ひとつせず、ソファでくつろいでテレビを見ていました。

「皆で手分けすれば早いのに…」

そう思いましたが、口に出しては言えませんでした。
この時もまた、家庭に波風を立てないよう空気を読み、自分の事は後回しにしました。

でも心の中はザワザワと波立っていました。

「どうしていつも私だけ?」

そんな理不尽な不公平さを感じながらも、黙って要求されたことをする、
この時感じた「ザワザワ」は、その後の人生でも繰り返し登場するテーマでした。

何でも与えられる兄と 与えられない私。高校生になっても不公平

高校生の頃、父が兄に留学を勧め、兄は速攻で断っていました。
その場に居合わせた私は思わず、

「私が行く!」

と声をあげていました。
異文化に興味があった私は、是非留学したいとかねがね思っていました。
けれども父は苦々しい顔で

「女はダメだ」

と、秒で却下。
いつも聞き慣れたその言葉に、また口をつぐみました。

兄は望まなくても与えられ
私は望んでも与えられない


なぜなら…

私は女だから

理不尽な思いをまたひとつ飲み込みました。もういい加減喉につかえそうで苦しくなりました。

私は生まれても喜ばれなかったのかなと感じたひな祭り

およそ「女だから」いいことはひとつも無く。

例えば「女だから」あるはずのおひな様が家にはありませんでした。
季節になると「もうおひな様飾った?」という友人達の賑やかな会話に入っていけず、
こちらに話が飛んでこないようそっと気配を消しました。

一度母に、

「どうして家にはひな人形が無いの?」

と聞いてみたことがあるのですが、
私が苦手なあの険しい顔で

「いいんだよっ!」

と一蹴されました。
それから二度とおひな様の話はしませんでしたが、

私は生まれても喜ばれなかったのかな…

どこにも居場所が無いような心細さを感じました。

褒められる時は「男だったらよかったのに」と言われ、「女である私は価値がない」と心の奥底にインストール

「女だから」と散々言われる一方で、何か私に褒められるようなことがあった時は、必ず

「男だったらよかったのに」

と言われました。 
成績が良かったり、何かに選ばれた時などです。

心の中では

「何で女じゃダメなの?」

といつも思っていましたが、
幼いころから何度も何度も繰り返し繰り返し聞かされるうちに、

「女である私は価値がない」
「女である私は愛されない」


心の奥底にインストールされました。
これらの信念は、その後の人生のあらゆる場面に顔を出してきました。

「私の家はちょっとおかしい?」客観視し始めた十代

だんだん行動範囲が広がるにつけ、

「もしかして私の家はちょっとおかしい?」

と感じることが増えてきました。

例えば、友達の家に遊びに行った時に、友達がお兄さんに気軽にものを頼んでいるのを見た時。

家だったら兄が怒って大変なことになる!と、見ていてハラハラしました。
でも、ごく当たり前のようにお兄さんが頼みを聞いてくれるのを見て心底驚きました。

あるいは大学に入学したら、留学経験のある女子が珍しくもないくらい大勢いて……衝撃でした。

「女はダメ」…じゃない家庭がこんなにあるなんて!

親の考え方ひとつでこんなに機会に差があることを知って、人生って不公平だなと思いました。


自分を押しころし、親の望む役割を演じる「いい子」でいることが生きる術だった私は、大人になってからも自分では気づかないまま「いい社会人」を続けました。

「ちゃんとやらなきゃ」「人に頼ってはいけない」過労で倒れながらも走り続けた会社員時代

新卒で入った会社では、月の2/3は日本に居ない生活になりました。
このおかげで、物理的には親のコントロールからだいぶ抜け出せました。

その一方、徹夜や時差のある不規則勤務で、神経も体力も使う仕事だったため、今度は体調管理にとても気を遣うようになりました。

頻繁にある急なスケジュール変更
毎回異なる出勤時刻
直前にならないと確定しない休日

予定が立てづらく、365日拘束されているような感覚でした。

眠っている途中でハッと目覚めては、
部屋の光景から自分が今どこに居るのか思い起こし、
ドキドキしながら時計を見て、
枕元にある次の出勤日時を書いたメモを確認するのがクセになりました。

いつも寝不足で疲れていたので、もし眠りが深くて寝過ごしてしまったらと不安だったのです。

…でもそんな心配は無用でした。
仕事の前日は緊張のあまりぐっすり眠れた試しが無かったからです。

一旦目覚めると今度は次の仕事の段取りが気になりました。
頭の中でイメトレしているうちにすっかり目が冴え、眠れなくなる…というのがいつものパターンでした。

そして仕事中はいつも周囲に気を配り、先回りをすること、効率よく動くことに注意を払い…

「ちゃんとやらなきゃ」
「人に頼ってはいけない」


常に何かに追われているようで気が休まらなくなっていきました。
慢性的な睡眠不足と心身の疲労が積み重なり、ついには過労で倒れることもありました。

それでも、

「休んじゃいけない」
「頑張らなきゃ」


と、昭和のスポ根ドラマ並みのド根性で自分を奮い立たせて走り続けました。

婚約中、心に灯った赤信号。でも「親に面倒な思いをさせてはいけない」が発動

そんな日々の中、20代半ばで婚約しました。
婚約中に相手の実家を初めて訪ねた際、ご両親に「いずれはこちらに住んで」と言われ、
婚約前とは話が違っていることに胸騒ぎがしました。

その当時、仕事を辞めるという選択肢は考えられませんでした。
馴染みの無い遠方の土地で、どんな方なのかまだよく分からないご両親と同居の未来を思うと、私の心の中で赤信号が灯りました。

帰宅後、意を決して両親に話してみましたが、
「もう招待状も出しちゃってるし…」
と言われました。

それを聞き、幼少期から培った
「いかに親に面倒な思いをさせず、不穏な空気にならないようにするか」
が発動しました。
そして迷いつつも結婚式の日を迎えたのでした。

仕事に家事に働きづめの新生活

新しい生活が始まり、数日間の泊りがけの仕事から帰宅しました。徹夜明けでヘトヘトでした。
家に入った私の目に飛び込んできたのは、洗濯物の山と読み散らかした新聞、使用済みのグラスたちでした。

「えっ!? やりっぱなし?」

心がザワっと波立ちました。
一睡もしないまま何度も洗濯機を回し、掃除をし、買い出しに行って食事を作り…。 
お互い仕事をしているのに、気づけばひとりで家事を一手に引き受けていました。

「どうしていつも私だけ?」

実家にいた頃の理不尽な思いがまた蘇りました。

頑張っているのに明るい展望が見えず、新生活にピリオド

仕事でも家庭でも心も体も休まらず、これまで以上に寝不足の日々が続きました。

家事負担だけでなく、経済的負担も私ばかりがどんどん重くなっていき、
相手の両親からは

「長期休みには帰って来い」
「いずれは同居」


との圧が強まりました。

日々、仕事に家事にふらふらになりながら頑張っているのに、責められているようで苦しくなってきました。

「いつまでこの生活が続くんだろう?」

全然幸せではない自分に気が付いてしまいました。

せっかく息苦しい実家から這い出したのに、ここも息苦しい。


どう考えても将来に明るい展望を見いだせず、結局この生活にはピリオドを打ちました。

自己犠牲のプログラムに追い立てられていたことに後から気づく

今思えば、私は自分の洗濯物だけ済ませて、さっさと寝てしまって良かったのです。
そうすれば疲れも取れ、相手にモヤモヤもしなかったことでしょう。

ずっと後になって心のことなどを学ぶようになってから気づいたのですが、

そもそも相手に

「洗濯しておいて」

「掃除しておいて」
「食事作って」

なんてひと言も言われていませんでした。

やっていたから言われなかったのか、
はたまた、やらなくても言われなかったのか…
今となっては知る由もありません。

ただ、子どもの頃から「女だから」と自分だけ我慢や家事を強いられ、

不公平だと思いながらも従ってきた「自己犠牲のプログラム」が、


社会人になってまで自覚のないまま私を追い立てていたのです。

20代後半、ひとりに戻って初めて手に入れた自由と爽快感

その後はむしろ清々しい気分で仕事を続けました。

親のコントロール下で我慢を重ねた子ども時代、学生時代をくぐり抜け、

「嫁」として相手のご両親がコントロールしてこようとするのをかわし、

ひとりの「個」として存在できる仕事の場は、たとえ心身ともにキツくても外の空気を胸いっぱいに吸える自由さがありました。

青空の下 
太陽に向かって 
一気に飲み干すビール!

ぷはーーーーーっ! 

そんな爽快感で、心の中が晴れわたるようでした。

再びのご縁。穏やかな家庭を思い描き、働き方を見直し転職

それなりに充実した日々を送っていたころ、再びご縁がありました。
はじめは結婚なんて勘弁!と思っていましたが、だんだんそれもいいな…と穏やかな家庭を思い描くようになっていきました。

お互いに不規則で忙しい生活だったこともあり、前回の教訓もあり、私は毎日家に帰って来られる日勤の仕事に転職をしました。

「頼まれた仕事は引き受けなければならない」転職後も朝から夜遅くまで働いた30代

ところが、ここでは社長から直接指示を受けその予定に合わせて動くため、また時間の読みにくい、予定の立てづらい日々が始まりました。

それでも、

頼まれた仕事はすべて引き受けなくてはならない

抜かりなく仕上げなくてはならない

先回りして仕事をしておかなくてはならない

ものだと思い、気が付けば朝早くから夜遅くまで働き詰めになっていました。

来客が重なってお昼を取りそこなったり、
残業しても仕事が終わらず仕事を持ち帰ったり、
休日も仕事をし、睡眠時間は3〜4時間が常態となっていきました。

忙しく、彼とは疎遠に。「ごく普通の家庭を作りたい」ささやかな願いも叶えられない

結婚する予定だった彼とも次第に疎遠になっていきました。
そもそも仕事だけでいっぱいいっぱいなのに、結婚なんてもうあきらかにキャパ・オーバーでした。
それ以前に、食事のひとつも一緒にするような余裕もなくなっており、結局そのまま終わりました。


…なんてサラッと書きましたが、この時はだいぶ苦しみました。

多くの人たちが
当たり前のようにスルッと結婚し
子どもを産み育て
サラッと家庭生活を送っている


…ように見えるのに、

どうして私にはそれが出来ないのだろう

って。

これまでの人生、

すごくサボってきたわけでもないし
悪いことをしてきたわけでもないし
高望みしてきたわけでもない


もちろん、「完璧だったか?」と言われれば、全っ然そんな事はありません。
ですが。

結構歯を食いしばって頑張ってきた

つもりなのに、

「ごく普通の家庭を作りたい」

そんなささやかな願いも叶えられないほど、
私は何か悪いことをしたのでしょうか?
 
何がいけなかったのでしょうか?


神様なんて居るわけないと思うけど
もし居るとしたら、頑張る人が大嫌いなんだな!


って思いました。そう考えないと辻褄が合いません。

「報われない」

と感じました。

同僚に、「2割の働きアリ」だと指摘され、初めて働き過ぎに気付く

そんなある日、同僚にこう言われました。

「働きアリの法則って知ってる?
アリの集団では、全体の2割がよく働いて、残りの8割はあまり働かない。

でも、その2割の働くアリだけを別の所に移すと、その中でまた2:8に分かれるんだって」

「あなたはどこまで行っても2割のアリだよ。働き過ぎ!」 

忙しいとは思っていましたが…「働き過ぎ」という認識はありませんでした。

言っていいという発想が無かった「助けて」という言葉 

思えば、歯を食いしばって働いていたら、文字通り歯を強く嚙みしめていたようで本当に歯にヒビが入ってしまったことがありました。 
その日何時に帰れるかもわからない日々でなかなか歯科医にも行けず、この時も自分を後回しにして仕事を優先しました。

具合が悪い時、その日の仕事を限界まで頑張ったら、もう自宅に帰る気力も体力も残っておらず、会社近くのホテルを取り、やっとの思いでヨロヨロ歩いて行ってベッドに倒れこんだり。

どちらの時も「助けて」が言えず、

そもそも「助けてと言っていい」という発想そのものが無かったのですが ―


ひとりで我慢し、「2割のアリ」を続けました。



こうした働き方の根底には、子ども時代に家庭でインストールされた、

「いい子」でいなければ居場所がない

「自分がどうしたいか」より「求められている役割」を優先する

「女である自分は価値がない」=「だから役に立たなければならない」

というプログラムが絶え間なく動き続けていたように思います。

結婚。今度こそ穏やかな生活が待っているはず

しばらく仕事オンリーの生活を重ねるうちに、さすがにこの生活をずっと続けたら体を壊すなと自覚するようになりました。

やがて、優しく面倒見のいいタイプの人と結婚しました。
今度はうまくいきそうな気がしました。

お互いに兄がいて、待遇に差をつけられて育ってきたところに意気投合したこともあり、理不尽な思いをしないで済むのではないかとも思いました。

それまでの仕事は退職し、今までより時間にゆとりが持てそうな仕事に変わりました。
ようやくこれからは「ささやかな普通の家庭」が作れそうに感じました。

優しい人だと思ったのに…だんだんモラハラ化してくる

公私ともに新しい生活になりました。
忙しいながらもこれまでの仕事に比べると時間と心に余裕ができました。

相手の仕事は明らかに私より忙しかったので、 朝早くから夜遅くまで仕事で大変だろうと思い、家事は私が全部引き受けていました。

ところが、だんだん相手の言動に気になる点が見られるようになってきました。
最初はほんのかすかな違和感でしたが、何をするにしても自分中心の態度や、自分の方が稼いでいるのだからといった言動が増えてきました。

彼もまた私と同じように不公平感の強い満たされない幼少時代を過ごしており、それを取り戻すかのように、自分中心のモラハラ夫となっていきました。

正確に言えば、自覚のないまま相手を優先してばかりで自己犠牲的な行動をしてしまう私がモラハラを助長させてしまったのだと思います。

「迷惑を掛けるのでは」「男の子だったらどうしよう」なかなか母になることに踏み切れず 

「妊娠や出産は迷惑をかけること」だと思ってずっと避けてきました。
赤ちゃんが苦手というわけでは無く、むしろ可愛いくて大好きなのですが、転職した際に出産の予定は無いか、少なくとも3年くらいは控えて欲しいと言われていました。
今はそんなことを言ったら問題になるのかも知れませんが、当時はよくある話でした。

それからもう一つ。
実は男の子が生まれたらどうしようと思ってためらっていました。

子ども時代、家では兄が異常なほど優遇されていたのに、ここぞという時に全く頼りにならないという不条理を経験してきたので、家事その他、一通りのことは全部するよう必要以上に厳しく叩き込んでしまうのではないかと心配でした。 

それ以前に「男の子」というだけで、子どもの頃両親にされた兄と私への数々の差別的な対応の違いが蘇り、愛せないのではないかという不安がありました。
今ならどちらでも可愛いと思いますが、当時は本気でそう思っていました。

結局、私の背中を押したのはもうこれ以上先延ばしにできないと言う私自身の年齢でした。

妊娠したものの心拍停止。手術を延期して仕事に行き、夫に「強いね」と言われる

やがて妊娠がわかりました。
夫はもともとあまり子どもを欲しがっていなかったのと、仕事のストレスが多い時期と重なっていたためか、

反応薄い

この一言で言い表せるリアクションでした。
今後のスケジュールのため仕事先には伝えましたが、実家には知らせませんでした。

ある日、体調に異変を感じて病院に連絡し、急遽受診しました。
一人で来た私に、医師は「今日はどなたと一緒に来られましたか」と戸惑いの表情を見せました。
「こういう時は夫なり母なり誰かと一緒に来るものなんだ」と、その時初めて知りました。

「心拍が停止しています」

ひとりでその診断を聞きました。
翌日に手術の予定を入れられそうになったところを、1日延期してくれるようお願いしました。
仕事の都合があったからです。
医師は当惑したようでしたが、そうすることのリスクを伝えてくれた上で延期してくれました。

翌日、私は予定通り仕事に行きました。
夫にはこう声を掛けられました。

「強いね」

心がザワッとしました。
私が仕事に行くのは「強いから」じゃない。

「迷惑をかけてはいけない」

子どもの頃から握りしめていた信念が、私を仕事に駆り立てたのだと思います。

再び妊娠、ストレス多く突発性難聴を発症 

その後ふたたび妊娠が分かりました。 
今度は順調に進み、母にも妊娠と出産予定日を伝えました。
すると母は開口一番こう言いました。

「あぁ、その頃旅行に行くのよね」

いいんです。 
それは全然いいんですが、その後もまったく

お祝いの言葉はありませんでした。

体調を気遣う言葉もありませんでした。

うっすら期待してしまった自分が愚か過ぎて、我ながら笑えました。

そうだよね!
ホントどうでもいい話だよね!

心の中で大笑いした後、ひとりで泣きました。

夫も仕事のストレスでイライラしていたため、妊娠中の私の心配事は、

出産の際、どうやって一人で病院に行こうか

タクシーに断られたら自分で運転できるだろうか


運転していったところで駐車場はどうしようか

退院後すぐにどうやって一人で育児しようか


ということばかりでした。
お腹の子が誰にも歓迎されていないようで、やるせない気持ちになりました。

そんな日々の中、突発性難聴を発症しました。
通常なら即刻入院、安静の上点滴治療をするそうなのですが、妊娠中のため通常の治療ができないので入院は無しになりました。
家に居ると何だかんだと用事に追われ、安静にできないまま片耳の聴力を失いました。

予定日前日までひとりで運転、入院当日はため息と舌打ちをされながら夫に送ってもらう

予定日前日まで自分ひとりで車を運転していました。
大きいお腹を見た駐車場の係の人に「双子?」と聞かれ、「違います、ひとりです」と言うと驚いて予定日を聞かれました。
「明日です」と言うと「え? 明日? ひとりで運転して大丈夫なの?」と心配されました。
見ず知らずの人に言われて初めて、心配されるような事なんだ、と思いました。

もしタクシーに乗車拒否されるなどしてどうしようもなくなったら、自分で運転して入院するしかないと思っていたので、常に運転できる状態をキープしておかなくてはと思っていました。

結局、入院したのは夫が居る夜中だったので、全て準備した上で夫を起こし、車で連れて行ってもらいました。 自分でハンドルを握らずに済みホッとしました。

でも、病院に向かう車の中で夫は何度も何度も大きなため息をつき、舌打ちをしていました。
子どもの頃から、迷惑を掛けたり何かお願いした時に母にもよく舌打ちされていました。

迷惑なんだよね

…そう伝わってきて、今に始まったことではありませんが、何とも言えない苦い気持ちがこみあげてきました。

病院に到着すると「ここでは(仕事とは言え)私の体調を気に掛けてくれる人ばかりだ」と、心の底から安堵しました。

出産後は退院当日から自宅で日常生活。ますます無視する自分の心と体の声

出産後は、退院したその日から自宅での日常生活に戻りました。 
最初から里帰りする気はありませんでしたし、母からも何も言われませんでした。
自宅でひとりでいる方が気を遣わずに済み、ラクだと思いました。

退院当日、自宅で洗い物をしていると、突然寒気に襲われ歯がガタガタいうほど震えが来ました。
驚きましたが、やることがたくさんあり、ゆっくり休んでいる場合ではありませんでした。

ワンオペ育児&家事の日々の始まりです。
同時にこれまで以上に自分の心の声と体の声を無視する日々の始まりでした。

ほどなく腱鞘炎になり、それを皮切りに次々と不調が現れました。
でも、育児の上に仕事復帰や預け先確保の準備なども加わり、それどころではありませんでした。

人手が無ければ、自分で自分を助けるしかない! 前倒し無限ループにはまる

ひとりだと赤ちゃんをお風呂に入れ自分の髪を洗うのさえ入念な段取りが必要でした。
先の事を考えてどこまでやっておくかでその後のスムーズさが全然違うのを実感してからは、

人手がないのなら、
今の自分が1時間後、2時間後の自分を助けてあげればいいんだ!


と、前倒し準備に拍車がかかりました。 
手が離せずいっぱいいっぱいの時に「大丈夫! 後の事はもうやってある!」と、少し過去の自分に救われることも多かったです。

一方で、

「今これをやっておかないと、ちょっと未来の自分が困る!」

と前倒し無限ループにはまっていきました。
「他に何か今やっておけることは無いか?」と先の先のことまで考え、ますますホッと一息つくことが出来なくなっていきました。

仕事に復帰、3児の母のシッターさんに「人手が無いのは大変ですね」言われ

生後4か月で仕事に復帰しました。
保育園に入るのは難しい地域だったため、仕事に出かける時はベビーシッター会社に頼んでシッターさんに来てもらっていました。

家に派遣されてくるシッターさんの中に三児の母だという方がいらっしゃいました。
子ども一人だけで悪戦苦闘している私から見ると、お子さん3人育てたなんてほとんど神の域でした。
何度目かの時にそう伝えると、

「そんなことないですよ。私の時は人手があったし仕事もしていませんでした。 
お風呂に入れる人と受け取る人で手分けしていましたから、ひとりでお風呂にもはいれました。人手がないのは、本当に大変だと思います」

と言われました。
人手が無く、子育てと家事と仕事をするのは、いろいろ工夫してもやはり大変なのだなと納得しました。

マルチタスクでギリギリめいっぱい、仕事と子どもの間で揺れ動く

講師をしていた私は、事前に準備しておきたいことがいろいろありました。
でも、その時間もシッターさんをお願いするには費用が掛かり過ぎるため、子育てと家事をしながらのマルチタスクとなりました。

良く泣きあまり眠らない子の育児に手がかかり、合間合間に家事をこなしていくともういっぱいいっぱいでした。

せめて翌日使う資料に目を通しながら段取りを考えておきたい、と思ってもその時間が取れませんでした。
夜中に何度も目覚めては泣く子に授乳しながら、懐中電灯の明かりでテキストや資料に目を通しました。
そしてようやく寝付いたわずかな時間を拾い集めてパソコンに向かい、明け方までかかって何とかギリギリ間に合わせる日々でした。

「家に居る時間=仕事ではない」

という認識の夫の協力が得られず、他の用事も重なったり忙しい時期はいつも切羽詰まるような焦りを感じました。

子どもを預け、家庭のあれこれをとりあえず一旦置いて仕事に行っている時間が一番ラクでした。
それだけに集中できるシングルタスク。夢のようでした。

目の前に座っている平均年齢20歳前後の学生たち。
誰一人泣き叫ぶことも無く、トイレはひとりで行けるし、ご飯だって自分で調達するし、目を離しても何かを口に入れてしまうこともありません。 

すごいっ!

ここまで育て上げた親御さんにリスペクト!

そして、

仕事ってこんなにラクだったんだ!


でも子どもが歩くようになり、後追いして私の手をぎゅっと掴むようになると、小さな指を1本1本剝がして逃げるように仕事に行くのが辛くなりました。

「遅刻しないように早く行かなきゃ!」

という焦りと

「こんなに小さいうちは子どもと一緒に居たい」

という気持ちが交差しました。

それなら、私がベビーシッターになって自分の家に派遣されれば全て解決では?

...だったらはじめから私が家に居ればいいのか…


などと思いがぐるぐる巡りました。

心臓病が発覚、頭がいつも戦闘モードで激しい頭痛に苦しむ

いろいろなことが重なって、詰んだ! と追い込まれたような時、よく胸のあたりがドキドキしてモヤっと落ち着かないような、両腕の血管の血液が沸騰するような感覚がしていました。

ある日、不整脈に気づきました。
例によって放置していましたが、ずっと続くので病院に行ったところ、心臓病が発見されました。

頑張っている人は報われる

と、どこからともなく刷り込まれていて、この期に及んでもまだ少し真に受けていた私は

え? 何で? 毎日こんなに頑張っているのに?
何で?
 全然報われていない!

と、理不尽さでいっぱいでした。

その頃、片時も休まることなく続く頭痛にも見舞われました。
頭がギューッと締め付けられる強い痛みで、さすがに日常生活もキツくなりました。
あまりに治らず病院に行ったところ、東洋医学を進められました。

受診したところ、

「頭がいつも戦闘モード」

と言われました。
交感神経(緊張)が優位で副交感神経(リラックス)の出番が少ないのではと。

「眠る」 「食べる」 「お風呂に入る」などリラックスする時間に副交感神経系が優位になるとのことで、
「どうですか? 何か思い当たりますか?」 と聞かれたのですが…。 

眠る…子どもが泣いて起こされるし、そもそも家事・仕事・育児をこなすのに眠る時間を削っているし

食べる…自分の食事はキッチンの片隅で立ったままかきこむような時もあるし、食べ損なうこともしょっちゅう。

お風呂…子どもを気にかけながらでリラックスとは程遠い。

でも、だから、私にどうしろと言うのでしょう? 
実家で産後をゆっくり過ごす人も多いのに、ひとりで頑張ってきた私にこの仕打ちは何なのかとやりきれない思いでした。

子どもに同じ思いはさせたくないと頑張るけれど、苦しもあり

子どもは女の子でしたので、自分自身が「女だから」という理由であれこれ制約され、機会を逸してきたことから、そういうことは 一切言わずに育てました。

それでも世間で「女の子」だと認識されると狭い世界に閉じ込められるのではないかと心配で、小さい頃は一目で性別が分からないような服を着せていました。
身内はどうにもできませんが、見ず知らずの人たちからの悪気の無い刷り込み

「女の子だから〇〇よね~」
「女の子なのに〇〇なの?」


が少しでも避けられればと思いました。

そして自分のような思いはさせたくないと思い、心理学ベースの子育て講座に参加しました。
とても良かった半面、苦しくもなりました。
自分はそうしてもらっていないことをするからです。

一方的に決められて言い渡される育てられ方をされた私が、
横並びで子どもを尊重し、対話する育て方をする。

うんうん、子どもの気持ちを尊重して育てたいよね

という気持ちと

あぁ、私もこんな風に育てられたかったなぁ


という気持ちが共存していました。

「ずっと我慢してきたのに」子どもに向かって叫んだ言葉は、私の心の叫びだった

子どもへの対応には気をつけていたつもりでしたが、自分が目いっぱいの時に思わず声を荒げてしまったことも一度や二度…三度や四度ではありませんでした。

ある時、

「どうしてあなたはいつもそうなのよ!」

「私なんか、ずっと我慢してきたのに!」


そう叫んでしまってから、ハッとしました。


…あ。私、ずっと我慢してきたんだ…

思いもしなかった自分の言葉にその場にしゃがみ込んでしまいました。

私、ずっと…
我慢してきたんだ
我慢してきたんだ
我慢してきたんだ!


ずーっと
ずーっと
我慢してきたんだ!


思いがけず、自分の心の奥から言葉が溢れた瞬間でした。 涙も溢れてきました。

娘に対してではなく、これまでの自分の人生ずっと我慢の連続だったと、この時初めて気が付きました。
娘に謝りながら、初めて言語化されたこの想いに自分でも驚きました。

でも、だからといってどうすればいいのかも分からず、再び我慢の日々に埋没していきました。

子どもの小学生時代、繰り返す義両親の入退院も加わり、ついには自分が緊急入院

子どもが小学生になってしばらくすると義理の両親が入退院を繰り返すようになり、病院の送迎や付き添い、面会などが加わりました。
夫は仕事と実家の事でいっぱいでピリピリしているし、私も仕事の他に子どもの学校や地域でのお役目もあり、ますます余裕がなくなりました。
そのせいか、子どもは不安定になり、多方面で心配事の絶えない日々でした。

最後は私まで救急車で搬送され、そのまま3週間の入院生活となりました。
当初は立ち上がることはおろか、上体を起こすことすら出来ず、寝たきりでした。
この入院中に仕事は辞めました。 そもそも動けないので早く代わりの人を見つけてもらわなくてはと、迷いはありませんでした。

病院のベッドの上で決めた、これからは「健全な自分ファースト」で生きよう!

ベッドの上で苦しむだけの日々。
動けなくなって思ったのは、

自分の意志で

行きたい場所に行き、

やりたいことをやり、


会いたい人に会い、


食べたいものを食べる


これが人生の醍醐味だということです。
でも動けた頃はいつも自分のことを後回しにしてばかりで

行きたいところに行かず

やりたいこともやらず

会いたい人にも会わず

食べたいものさえ食べず


誰かの要求を満たすことばかり優先していた

ように思います。

だんだん退院の日が見えてきたころ、看護師さんに声を掛けられました。

「早く退院したいですよね。
お家に帰りたいですよね!」

思わず答えに詰まりました。

「帰りたい」って言えなかったんです

—またあの我慢と義務感ばかりの毎日に戻るのかって。

娘のことだけが気がかりでしたが、幸い小学生でも高学年になっていたこともあり、毎晩電話で話す時の様子はしっかりしていて、ホッとしていました。

「これからは、健全な自分ファーストでやりたいことをやろう!」

と心に決めました。

それは決して「自己中心的な生き方」ではありません。

自分を大切にしながらも、周りとも調和して生きること
他人の期待ではなく、自分の価値観に従って選択すること

です。

「強制リセット」で気づいた「誰に許可してもらうでもなく自分で手放して良かったんだ」

動けなくなったことで「頑張らなきゃ」を手放すことができました。

と言うより、動けないので手放さざるを得なかったのですが。

まさに「強制リセット」でした。


迷惑をかけてしまったと感じていた仕事先の人たちや周囲の人たちも、温かく接してくれました。事情を知って手を差し伸べてくれる人もいました。

「嫌です」
「無理です」
「出来ません」


が言えず、言われたことはやらなければならないと無理を重ねた日々。
誰に許可してもらうでもなく、自分で手放して良かったのです。

「助けて」が言えない私でしたが、先生、看護師さん、理学療法士さんはじめ多くの方々に助けていただいて、少しずつ回復していきました。
再び歩けるようになったことに感謝の気持ちでいっぱいです。

実は転機は前にもあったのに「わかった」だけで終わりにしてしまっていた

実は、それよりもっと前に手放す機会はあったのです。
家事・育児・仕事でいっぱいいっぱいの中、

この忙しいのに報われない生きづらさは何なのだろう

何とかできないものか

と、心理学やコーチング、潜在意識やなどいろいろ学んだ時です。

特にカウンセリングを受けた時は、「相手はプロ」という安心感の中、洗いざらい話を聞いてもらう中で自分の考え方のクセに気づいていきました。

自分の子ども時代の家庭について、

「それぞれが、それぞれの立場で、
それぞれの役割を頑張っている」

という思いがけない言葉が自分の口から出てきたとき、

「そうだったのか!」

と胸の中のわだかまりがゆるみ、涙がこぼれました。
これまで、そんな風に思ったことは一度も無かったのです。

でも、そのときは「分かった」だけで良しとしてしまい、慌ただしい日常の中にまた自分を埋もれさせてしまったのです。

そして、救急搬送された病院のベッドの上で寝たきりになったとき、再びそれらのことを思い出したのでした。

私は、幼い頃から「本当の自分」を抑え、周囲の期待に応えることを優先して生きてきました。
その結果、自己犠牲が当たり前となり、心身ともに限界を迎えるまで、自分の本当の気持ちに耳を傾けることをしませんでした。

入院という「強制リセット」を経験し、ようやく自分自身と向き合う時間を持つことができました。
その中で、「もっと早く自分を大切にしていれば、こんなにも苦しまなくて済んだのではないか」と深い後悔の念に駆られました。

この経験から、私は同じように頑張りすぎてしまう方々が、自分の感情や本音に気づき、ご自分が望む人生を生きることの大切さを伝えたいと強く思うようになりました。
頑張らなくても愛される世界がそこにはあります。

現在は、これらの経験と学びを活かし、生きづらさを感じている方々が、ご自身の心の声に耳を傾け、これまでの延長線上ではない別次元の未来をつくるサポートをしています。

誰かの理想を生きるのではなく、ご自身の理想の未来を生きませんか?
人生のステージはいつからでも変えられます。

あなたの人生は、あなたのものです。

皆がそれぞれの形で貢献できる社会、「早く大人になりたい」と思える社会へ

私の願いは、誰もが自分の特性ややりたいことを大切にし、無理をせずに社会と関わっていける世の中になることです。
ジグソーパズルのピースのように、皆がそれぞれの形で社会に貢献し合い、社会全体として一枚の美しい絵になる、そんな社会を目指しています。

また、子どもたちや若い世代が「大人って楽しそう」「早く大人になりたい」と思えるような未来を築くことも、私の大きな目標です。
そのために、まずはおひとりおひとりが自分らしく輝けるよう、心の声に耳を傾けるお手伝いをしていきたいと考えています。

どうぞ、安心してあなたの声もお聞かせくださいね。
一緒に、あなたの未来を見つけましょう!